詐欺に恋して

次呂久 真司

一般公開

作者:次呂久真司

 これまでの人生で、私は何かを成し遂げたことがあっただろうか。アパートの一室。梁には縄が括られている。私は今、その縄の輪に自分の首を差し出そうとしている。まるで開かれた地獄の門へ、自ら進んで足を踏み入れるように。これが私が生きてきた中で唯一「成し遂げること」なのだろうか。そう思うと、死への恐怖よりも、惨めな自分を殴り倒してやりたい気持ちが勝る。でも、なんだかんだで、まだこうして生きているのは、きっと私は「怖がり」だからだと思う。死ぬのも怖いし、生きるのも怖い。どっちも怖いのなら、いっそこのまま、何もせずに時間だけが過ぎていけばいいのに。そう思っているうちに、今日が誕生日になった。

 「夢野阿斗(ゆめのあと)」――これが私の名前だ。今日で五十歳になる。そう、今日は私の誕生日だ。でも、目の前にあるのは祝福のケーキではなく、縄で拵えた輪っかだ。両親はとっくに亡くなり、妻も子供もいない。友人もいない。いや、正確には「いたけど、いなくなった」が正しいのかもしれない。

 「役立たず」「のろま」「お荷物」「給料泥棒」。職場で浴びせられた言葉を思い出す。数え切れないほどあったけれど、どれも耳に残る。胃がキリキリと痛む朝も、胃薬を飲んで出勤してきた。それでも、私は解雇された。

 二〇二五年、雇用者の給料引き上げに伴い、多くの企業で人員削減が行われた。要するに、誰かの給料を上げるために、その分の人件費が削られたのだ。私はその「削除された人件費」の一部に過ぎない。「形だけ」の美徳が好きなこの国の風潮が、私を追い詰めたのだ。

 でも、本当にそうなのか。解雇されたのは、単に私が無能だったからなのではないか。そう思うたび、心の奥底から湧き上がる自責の念が、私をさらに深い絶望へと引きずり込む。

 縄を見つめる。これをくぐれば、惨めな人生に終止符を打てるのだろうか。それとも、この選択すら、何かの間違いなのだろうか。私にはもうわからない。

 朝の光がカーテンの隙間から部屋に射し込んできた。縄の前に立ってから、どれくらいの時間が過ぎていたのだろう。辺りは暗かったはずだが。私は光の指す一点を見つめた。そこには赤く丸いテーブルがあり、時代遅れのパカパカケイタイが置かれていた。

 「ああ、いい加減、死ななきゃな」とつぶやきながら、私は首を輪っかに通した。あとは、足場を蹴れば終わりだ。さあ。意気込んで足場を蹴ろうとしたその時だった。

プルルル、プルルル……。

 メール着信音だった。突然の音に驚いて、私は足場から滑り落ちた。着信音とバイブ音が部屋にこだまする。私は、自分で命を捨てることさえ、成し遂げることができなかった。

「はあ……」深いため息をつき、私はケイタイを開いた。

件名: 助けてください 

本文: 突然のメールで失礼します。本当に困っていて、どうしても誰かに助けを求めたくてメールしました。 実は、今ベトナムに旅行で来ているのですが、パスポートと財布の入ったバッグを盗まれてしまいました。どうしてもお金が必要なんです……。もちろん、急にこんなお願いをして申し訳ないのですが、絶対にお返しするので、少しだけでも力を貸していただけませんか? どうかご検討をお願いします。お返事お待ちしています。志田未来 

 「志田未来?」どこかで聞いたような名前だった。でも、どこで聞いたかは思い出せない。メールには写真も添付されていた。肩まで伸びた黒髪の上にサングラスをかけた女性が映っている。服装はかなりの軽装で、ノースリーブにショートパンツ。白い健やかな肌が眩しい。メールには海外の口座番号も書かれている。

 「詐欺メールか」と思ったけれど、ケイタイ画面に映る女性を見ていると、なんだか不憫に思えてきた。大きな目と長い黒髪が、かつて同棲までした京子に似ていたのだ。

 部屋の外は春の陽気に包まれていた。さっきまで死ぬことばかり考えていたせいだろうか。やけに世界が平和に見える。鳥の声も、風の音も、どこか遠い国の話みたいに心に響いてこない。ただ、ぼんやりと「ああ、春だな」と思うだけだ。皮肉なことに、この平和さが私をさらに惨めな気持ちにさせた。でも、思いのほか、私はまだ生きたいと思っているのかもしれない。そう気づいたとき、急にお腹が鳴った。

「何か食べようか」

 自分に言い聞かせるように、声に出してみる。どうせ最後の晩餐になるかもしれないのだ。ジャンクなものが食べたい。ラーメン、ポテトチップス、コーラ、ビール。食べたいものを全部買ってやる。そんなやけっぱちな気持ちに、自分で自分を嘲笑した。なんて浅はかで厳禁な奴だろう、私は。

 コンビニの自動ドアが開くと、店内から冷たい空気が流れてきた。左手側の小さなスペースにATMがちらりと見える。誰もいない。その瞬間、先ほどのメールが頭をよぎった。「志田未来」という女性は、本当に困っていて、たまたま私のメールアドレスに行き着いたのかもしれない。私のメールアドレスは単純な綴りだったし、ヤフーメールの受信だったから、あり得ない話ではない。

「本当に困っているのなら……」

 泣いている彼女の顔が浮かぶ。路頭に迷う彼女を見捨てるわけにはいかないだろう。私の良心が、見ず知らずの彼女を助けなさいと言っている気がした。

 私は、メールに返信をした。 

≻はじめまして、夢野と申します。いくらぐらい必要でしょうか?

 返信がなければ、それは他の誰かが彼女を救っているのだろう――そう思いながら、店内を歩き、雑誌コーナーで立ち読みをしていた。しばらくすると、ケイタイが震えた。着信音が鳴り響く。

>パスポートが出来るまで一カ月ほど時間がかかるみたいなので、当面の生活費も工面して頂けるのなら、三十万円ほど送金していただけると助かります。

 三十万円。決して安い金額ではない。でも、彼女のメールのおかげで、私はいまも生きている。それに、人助けのためになるなら――そう考えた私は、手をつけていなかった両親の保険金から三十万円を送ろうと決めた。ATMの前に立ち、ケイタイ片手に操作を始める。画面の数字を見ながら指を動かしていると、隣の扉が開く音がした。

「え?」

 驚いて顔を上げると、「従業員以外立ち入り禁止」と書かれた扉から女性が出てきた。どうやら交替の時間らしい。従業員の女性と目が合った。咄嗟に視線をケイタイに戻したが、彼女の目線も同じところに映っているようだった。

――しまった。

 ケイタイを慌ててポケットに突っ込む。画面には「志田未来」という女性の画像が映っていた。見られただろうか。怪しまれただろうか。心臓が強く胸を打ち、罪悪感とも背徳感ともつかない感情が全身を包み込む。急いで送金を済ませ、この場を立ち去ろうと再びケイタイの画面を見て送金ボタンを押した、そのときだった。

「すみません、店長の神林と申します。お客さん、いま送金されましたか? もしかして、それって詐欺メールとかじゃないですか?」

 出口に向かおうとしていた私に、男性の従業員が声を掛けてきた。柔らかい口調だが、目は笑っていない。どこか面倒くさそうな空気を漂わせている。きっと、さっきの女性から声を掛けるように押し付けられたのだろう。私は、そういう人間を見分けるのは得意だ。長い間、そういう人間を幾人も見てきたのだから。

「大丈夫です。知り合いに送金しただけですから」

 作り笑いを浮かべ、なるべく棘のない言葉を選んで返した。 

「そうですか……。最近、『ロマンス詐欺』っていう女性に成りすまして送金を促す詐欺被害が増えているようですから、気を付けてください。すみません、お忙しいところを引き留めてしまって。」

 男性は形だけ頭を下げて店内奥に戻っていった。 

――『志田未来』という名前。

 その瞬間、ようやく思い出した。そうだ、ニュースで見たことがあったのだ。詐欺メールの名前として報道されていた。私は、まんまと騙されたのか? 

 いや、しかし――私に送られてきた『志田未来』は、本当に困っている『志田未来』かもしれない。そう自分に言い聞かせる。だが、送金を知らせるメールを送ろうとする手は小刻みに震え、頬の筋肉は引き攣ったままだ。作り笑いの表情を浮かべたまま、私はケイタイを見つめていた。

 やっとのことでメールを送ることができた。すると、すぐに返信が来た。写真付きだ。今度は、顔が画面いっぱいに映るショットだった。 

>ありがとうございます。本当に助かりました。夢野さんは、私の命の恩人です。

 画面を見て、私は安堵した。「命の恩人」と言われることに、悪い気はしない。ましてや、さっき私は自らの命を絶とうとしていたのだ。そんな私が、人助けをしているのだから――まったく人生というのは、何が起きるか分からない。

 誇らしい気持ちで家路に着いた。部屋の前に着いたとき、食べ物を買い忘れたことに気付いた。自分のことよりも他人を優先に考えてしまう私は、やっぱり「どうしようもない馬鹿」なのだろう。

 空を見上げると、青空いっぱいに春が瞬いていた。

 浜田省吾は、神様だ。この事実は、世界がひっくり返ろうが変わることはない。 

 京子と付き合っていた頃、私はそう豪語し、何度もライブに二人で足を運んだ。まだ、両親は健在だった。 

 恋の駆け引きや愛だ何だというのは、すべて浜田省吾が歌で教えてくれた。だから、彼のアルバムを聴くたびに、私は少しだけ自分が「まともな人間」になれる気がしていた。

 「命の恩人」と言われた私は、上機嫌になり、昼間からビール缶を六缶も開け、神様の声に酔い痴れていた。しばらくは、惚けて暮らすのも悪くない。金が底を尽きた時は、その時になんとかなるだろう。私は、やけくそな人生に足を踏み入れつつあった。気分がいい。 

――志田未来さんは、無事にパスポートの手続きはできただろうか? 

――ご飯は食べられているだろうか? 

――一人で寂しく過ごしているのではないだろうか? 

 そんなことばかりが頭を占めていた。気付けば、ケイタイ画面で志田未来さんの写真を眺めている。五十歳の誕生日に人助けをした。その事実が、孤独な人生に色を添えているように感じられた。 

 私は、メールを打った。 

>また何か困ったことがあったら、メールください。 

 志田未来さんの笑顔が目に浮かぶ。畳の部屋で大の字になり、午後の陽気な風に吹かれながら眠りについた。 

虚ろな意識が戻ったのは、夜十時ごろだった。張り詰めていた糸が切れたからだろうか、気怠さはなく、むしろプールで百メートルをクロールで泳ぎたいような気分だった。 

 テーブルの上のケイタイが、着信を知らせる光を点滅させている。彼女からだろうか? 胸の高鳴りを抑えきれず、画面を開いた。 

>夢野さん、本当にありがとうございます。送金していただいた金額は、日本に帰ったら必ずお返しいたします。安心してください。でも、困ったことに帰りの航空券がないことに気付きました。私って本当に間抜けで、ついてないです。何とか送金していただいたお金で、生活費と航空券を確保しようと思っています。パスポートが発行されるまで、極貧生活で乗り切ります。これ以上は、夢野さんにご迷惑をかけるわけにはいきませんから。本当に、大丈夫ですからね。 

 私は心配になった。ものすごく心配になった。彼女は、きっとベトナムのどこかの公園で、夜風に吹かれながら寂しくパクチーを食べているのだろう。昼間からビールを浴びるように飲んでいた自分が、なんて愚かだったのだろうか。 

 酔いつぶれて寝る前に流れていた浜田省吾の歌詞の一部がリピートする。 

 ――夕べ、眠れずに泣いていたんだろう。 

>返金は結構ですので、助けさせてください。あといくら送金すれば大丈夫ですか? 

 居ても立ってもいられず、メールを送信し、再び朝のコンビニへ走った。その間も、浜田省吾のあの曲のフレーズが頭の中でこだましていた。 

>本当に悪いですので、絶対に返金はさせてください。もしお願いできるのならば、あと二十万円ほしいです。

 彼女のメールに気付いたのは、コンビニに着いた時だった。店内を見回すと、朝の従業員はいない。ケイタイ片手に、今朝と同じようにATMで操作を始めた。すると、今度は大柄な男性従業員が近づいてきた。

「もしかして、『志田未来』ですか?」

 にやついた顔で、上から私を見下ろしている。私は、腹が立った。彼女の名前を、友達の名を呼ぶように軽々しく口にする店員を睨みつけた。

「詐欺ではないぞ。知り合いだ。志田未来という同姓同名の知り合いが、観光先で困っているんだ。」 

「それ、ベトナムでしょ。ビンゴ! おじさん、頭、俺よりいかれてるっしょ。ニュース見ない俺でも分かるっしょ。それ、詐欺すっよ。詐欺。」 

「うるさい、詐欺ではないと言っているだろう。」 

「やばいっしょ! それ、マジで。ジョーシキで考えたら分かるっしょ。」 

「どいてくれ、邪魔だ。送金しなきゃいけないんだ。」

私は、大男を撥ね退けようとしたが、その男はピクリとも動かなかった。

「ちょっと、いまケイサツに電話してるから、待ってて。」

大男はスマホを耳に当てて話し始めた。私はATMでの送金を諦め、店を出ようとしたが、腕を強く掴まれた。

「待てと、優しく言ったろ。俺をキレさせんなよ。」

 鋭い目つきが私を凍り付かせた。それこそ、まさにカツアゲやおやじ狩りの類ではないか。善意を装った恐喝に憤りを覚えた。早くこの場を離れなければ警察に連れて行かれる――そんな考えが頭をよぎる。その間にも、志田未来さんは孤独な夜を過ごしているというのに。

 私は、護身術として身に付けた技を大男にかけた。男が床に転がっている間に、アパートまで全力で走って逃げた。息を切らしながら、久々の全力疾走だ。過ぎゆく夜景が美しい。生きている心地がした。 

 次の日、私は郵便局に来ていた。 

 ATMで送金を試みたが、海外の口座へは「窓口にお越しください」との表示が画面に出た。仕方なく番号札を取って、順番を待つことにした。昨夜、彼女には謝罪のメールを送っている。すぐに送金する予定が、予期せぬ事態に遭遇したためできなかった旨を伝え、「明日には、必ず」と最後に付け加えた。

 郵便局の待合スペースには、私と同じように番号札を握りしめた人たちが座っていた。隣の席のおばあさんは、手にした封筒を何度も見直しては、ため息をついている。窓口の人たちは忙しそうに動き回り、機械的に「次のお客様をどうぞ」と声をかけていた。

 やがて、私の番号が呼ばれた。 

「どのようなご用件でしょうか。」窓口の女性が丁寧で落ち着いた声で対応してくれた。 

「海外にいる友人に、送金をしたいのですが。」 

「失礼ですが、送金先のお名前をお伺いしてよろしいですか?」 

「志田未来です。」 

その瞬間、女性の表情がわずかに硬くなった。

「お客様、いま、『志田未来』という名前を使った詐欺被害が多くありまして。」 

「いや、知り合いです。同姓同名なんです!」 

焦りが声に滲んだ。女性は眉を寄せ、さらに慎重な態度を見せた。 

「すみませんが、少しお話をお聞かせ願いますか? 奥の個室に来ていただけますか?」 

「警察を呼ぶんですか?」 

「話の内容によると思いますが、まずはお話を聞かないことには、私どもでは判断できませんので。」

私は咄嗟に言葉を探した。何か説得力のある理由を作らなければならない。 

「実の娘なんです。」 

 口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。しかし、もう後戻りはできない。

「別れた妻とともに出て行って、最近久しぶりに連絡が来たんです。妻は三年前に死んだらしく、いまは、私しか頼れる肉親がいないんです。娘は妻の旧姓を名乗っているので、志田未来といいますが、元は、夢野未来なんです。本当なんです。」

 自分でも信じられないような嘘を言っていた。だが、必死だった。声は震え、気付けば涙まで流れていた。窓口の女性を見ると、彼女の瞳も濡れていた。

「大変失礼いたしました。詐欺メールと同じ名前だったので、つい疑ってしまいました。本当に申し訳ございません。では、お手続きをいたします。」 

 女性は一呼吸置いてから、柔らかい笑顔を私に向けた。その笑顔に救われた気がした。

手際よく送金手続きを済ませ、私は二十万円を送金した。 

「子ども思いなんですね。娘さんも喜んでいらっしゃると思います。」 

 女性の笑顔が眩しいほどだった。その顔を見ると、私は背徳感に苛まれつつも、仁義を遂行できた達成感で胸がいっぱいになった。 

 窓口を離れ、郵便局の外に出ると、どこか清々しい気持ちになっている自分に気付いた。京子とあのまま結婚していれば、志田未来と同じ年齢の子供がいてもおかしくなかった。京子に似て、綺麗な女性に成長していただろう。

 空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。少しだけ、涙が出そうになった。

 それから五日も経たないうちに、志田未来からメールが届いた。どうやらベトナムで事故に巻き込まれたらしい。搬送先の病院で高額な入院費を請求されているという。メールの文面からは、焦燥感と不安が滲み出ていた

 私は五十万円を用意し、再び郵便局へと向かった。 

 郵便局には、以前対応してくれた女性はいなかった。今日は休みなのだろうか。話しやすい人だったから会えないことに少しがっかりした。待合場所で椅子に腰かける年寄たちも、先日よりも表情が暗い感じがした。どちらにせよ、日を改めるわけにはいかない。事態は一刻を争っている。私は意を決して呼ばれた窓口に向かった。

 そこには男性が立っていた。 

「お客様、こちらの窓口ではなく奥の個室でお話を伺ってもよろしいでしょうか?」 

 その言葉は「伺う」というよりも、明らかに誘導する響きだった。

「どうしてですか?」 

 私は警戒心を募らせた。きっと閉じ込められて警察に引き渡されるに違いない。肩から下げたバッグを握り締め、心の中でカウントを始めた。全速力で逃げる準備だ。誘導に従うふりをして、出口近くから一気に駆け出すつもりだった。だが、外を見ると警察官が近くを歩いているのが見えた。

――しまった、はめられた。郵便局に入ったときから目を付けられていたのだ。 

 私は気づかないふりをして個室近くまで進んだ。そのとき、ふと視界にトイレの入り口が入った。すぐ隣だ。

「あのー、すみません。トイレに行ってもいいですか? 朝からお腹を壊していて……」 

 いかにも腹痛に苦しんでいるような演技をしてみせると、男性は少し戸惑いながらも「大丈夫ですか? どうぞ使ってください」とトイレの方を指さした。

「ありがとうございます。すぐ終わらせますので、お時間取らせないようにします。」 

私は深々と頭を下げ、トイレに入った。

 そこには運よく小さな窓が一つあった。私は窓の外をそっと覗き、誰もいないことを確認した。これなら逃げられる。バッグを肩に掛け直し、窓枠に手をかけて体を持ち上げた。

 ひんやりとした春風が頬をかすめた。私は窓の外に飛び降りた。 

 人を助けることが、こんなにも難しい世の中になってしまった。そのことをいまさら嘆いても仕方ない。それでも、心の中に湧き上がる憂いは消えない。だが、私は使命を果たすために動いている。いまこの瞬間、そんな世界から抜け出そうとしているのだ。

 不思議なことに、胸の奥から使命感のようなものが芽生えていた。私の人生は、志田未来を助けるためにあるのだ――そう信じられる気がした。背中から翼が生えたような感覚が広がり、私はいまにも飛べそうな気がした。足取りは軽く、胸を張って歩き出す。

 志田未来に送金する。この難題を果たせるのは、夢野阿斗――私だけだ。 

 五十歳になって、オンライン送金の方法をインターネットで検索し、勉強した。そんなことを自分がするなんて、これまで想像したこともなかった。新しいことに挑戦するのは、いくつになっても心が躍るものだ。

 三時間ほど画面と格闘して、ようやくオンライン口座を開設できたその日、一本のメールが届いた。 

> もう私の人生終わりです。いまベトナムの刑務所に一時保留されています。病院への支払いができず、連行されてしまいました。このメールは、警察の方にお願いして、一人だけに送る許可をもらったものです。夢野さんにだけ送信しています。日本時間の午後六時までに送金が確認されなければ、私は逮捕されます。お願いです。すぐに送金をお願いします。 

 私は、自分を殴ってやりたい衝動に駆られた。彼女は、どれほど恐ろしかっただろう。見知らぬ土地で、警察に連行されてしまうなんて。志田未来の寂しげな顔が目に浮かぶ。早く送金しなければ――彼女の人生に取り返しのつかない汚点をつけてしまう。

 慣れない手つきでオンライン送金を完了し、「送金完了」の画面をスクリーンショットに収め、メールに添付して送信した。 

> 「本当にすみませんでした。送金に時間がかかってしまったこと、心からお詫びします。でも、これからはオンライン送金が可能になりました。いつでも、あなたに送金することができます。あなたの無事と安全を、心から願っています。どうか、ご無事で。 

 それから一週間――志田未来からのメールは来なかった。彼女は無事に刑務所を出られただろうか。事故の傷は癒えているだろうか。日本よりも医療が発展途上だと聞くベトナムで、感染症にかかっていなければいいのだが。次々と不安が頭をよぎる。

 すぐにでもベトナムへ飛んで行きたい。しかし、海外旅行など生まれてこの方したことがなかった。そもそもパスポートすら作ったことがない。私の人生において、それは必要のないものだと思っていたからだ。だが、もし本当に彼女の身に何かあったとき、すぐに駆けつけられるようにしておかなければならない。そう思い立ち、私はパスポートを作ることを決意した。

 いま、私は市役所でパスポートの申請を行っている。 

「五年と十年がありますが、どちらを申請いたしますか?」窓口の職員が尋ねる。

「一般的には、どちらの方が多いんですか?」 

「人によって違いますが、ビジネスで海外に行かれる方は十年ものを選ばれることが多いです。旅行目的であれば五年で十分かと思います。毎年海外に行かれる予定がなければ、五年でも問題ありません。」

 職員の言葉を聞きながら、私はふと若い頃の自分を思い出した。テレビで見る芸能人たちが、毎年のように海外でお正月や夏のバケーションを楽しむ姿に憧れていた。いつか自分も――そう思ったこともあった。しかし、そんな生活は一握りの人間にしか許されないものだという現実を、今では十分に理解している。

「五年のものでお願いします。そんなに海外に行くことはないと思いますので。」 

「かしこまりました。」 

職員は淡々と応対し、申請手続きを進める。

 初めて手にしたパスポートは、幼い頃に家族からもらった写真アルバムの匂いを思い出させた。新しいページを開くような感覚――もう一度、人生をやり直しているような気がした。

それから一週間後だった。ようやく志田未来からメールが届いた。それは、私の想像をはるかに超える内容だった。 

> 「しばらく連絡ができなくて、すみませんでした。パスポートを取得することができたのですが、ベトナムの孤児院でボランティアをしていたら、障害を持った孤児が多くいることを知りました。私、彼らに何もできないことが悔しくて、悔しくて。ベトナムの医療にも限界があることを知りました。だから、私はベトナムの孤児たちをトータル支援するために法人会社を立ち上げたいと思います。多くの企業や投資家から運営資金を援助してもらえるような事業を展開していきたいです。起ち上げのための資金を少しでもいいので支援していただけると本当に助かります。Chúc bạn hạnh phúc.(あなたの幸せを願っています。)」 

 長い文だった。しかし、その文には夢があった。目標があった。何より、彼女の優しさがぎゅっと詰まっていた。

 私は五千万円を送金した。両親の死亡保険の残り全額だった。どうせ使う予定のなかったお金だった。それを彼女の理想の社会のために使ってくれるなら――そう思った。 

> 「志田未来様、あなたの志に感銘を受けました。ぜひ、支援させてください。少しではありますが、起ち上げのための資金にお使いください。一人でも多くのベトナムの子ども達を、あなたの手でお救いください。あなたと出逢えた子ども達は、とても幸せなことでしょう。」 

 私は、メールを送信したあと、しばらく画面を眺めていた。何度も読み返して、何度も「送信済み」の文字を確認した。これでよかったのだと、自分に言い聞かせるように。

 それから一週間後だった。普段は押されることのない部屋の呼び出し音が鳴った。誰だろう。私の元を訪ねてくる人など、思い当たる人はいなかった。

「夢野さん、〇〇警察署の者です。少しお話を伺いたいので、ドアを開けていただけますか?」 

 野太い男性の声が部屋の中まで響く。私は胸騒ぎを覚えながら、玄関のドアを開けた。そこには黒スーツに黒いネクタイを付けた屈強な一人の男性が立っていた。

「夢野阿斗さん、ご本人で間違いありませんか?」 

男性が確認するように尋ねる。その声は威圧的ではなかったが、どこか冷たさを感じた。

「……はい、私が夢野ですが。」 

「夢野さん、××銀行のオンライン送金で海外への送金をされていますよね。相手は『志田未来』。実は、現在詐欺被害の中で最も警戒されているのがこの『志田未来』という人物です。裏には反社会勢力組織の存在が噂されています。あなたが送金した多額の資金が、その組織に流れている可能性があります。送金された理由をお聞かせいただけますか?」

 私は一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに気を取り直し、静かに答えた。

「一つ、あなた方にお伝えしたいのは、『志田未来』は実在します。彼女はいま、ベトナムで障害を持った孤児たちを救おうと必死に活動しています。それが、世間の人からは偽善に見えるのかもしれません。でも、私は彼女の理想を信じています。私は、彼女の未来に投資しただけです。それが、いけないことですか?」

私の声は震えていなかった。自分の行動に後悔はなかったからだ。笑いたければ笑うがいい。そう思って、目の前の男性を見た。すると、彼は真剣な表情で私の目を見ていた。

「申し訳ありませんが、夢野さん。あなたの口座はすべて停止させていただきました。今後は『志田未来』への送金は不可能です。同時に、彼女との連絡も禁止されます。端末も我々の管理下に置かせていただきます。」 

「……そんな……。」 

「これは国としての判断です。すでに同じ内容で詐欺被害に遭った人々が複数確認されています。あなたの思いは理解しましたが、これは間違いなく詐欺です。ご了承ください。」

 男性はそれだけを告げると、革靴の音を鳴らし去っていった。

 その後、私の口座は本当に差し止められていた。メールも、それ以降「志田未来」からは一通も届かなかった。それが警察によるものなのか、起業した事業で忙殺されているかもしれない。それとも本当に、ただ金を巻き上げるだけ巻き上げて私を切り捨てたのか――判断はつかなかった。ただ、空っぽになった口座を見つめながら、私は静かに息を吐いた。 

Chúc bạn hạnh phúc.(あなたの幸せを願っています。) 

 志田未来から届いた最後のメールにあった一文を、私は何度も読み返した。

 「あなたの幸せを願っています。」――その言葉が本心なのか、それともただの飾り言葉なのか。どちらでもいい。私は、この言葉を信じたいと思った。

 部屋の窓から差し込む午後の日差しが、いつもより眩しく感じられた。

コンビニ店員 大倉大和

 「なんで俺が事情聴取を受けなきゃいけないんですか? マジ意味分かんねー」 

 大倉大和は、店内の従業員室で警察官と向き合っていた。目の前の男は、黒いスーツに黒いネクタイを締めた屈強そうな人物だった。その姿を見て、大倉は思わず「葬儀屋かよ」と心の中でつぶやいた。

「捜査にご協力をお願いします。お名前と年齢を教えてください」 

「マジで言ってんの? ……おおくらやまと、二十六歳、フリーター。」 

「ATMから『志田未来』に送金しようとしていた男性について、分かる範囲でいいので教えてください。」 

「そんなの防犯カメラを見ればいいでしょ?……分かったよ、言うよ。あいつは、四十代後半か五十ぐらい? 身長は俺より低かったから、百九十センチよりは下。そうだな、百七十センチぐらい? 俺も店長から、『あいつが来たら警察に連絡しろ』って言われただけだから、細かいことは知らねーよ。ていうか、今度あいつに会ったら、落とし前つけてやるよ。俺を投げ飛ばしやがって。あいつマジで頭のネジ、ぶっ飛んでいやがる。」

 警察官は冷静にメモを取っている。大倉は、その手元をちらりと見ながら、少しだけ言葉を足した。 

「……そういや、『志田未来』って言葉を聞いた瞬間、あいつ俺を睨みつけたんだよ。あと、首のところに縄で締め付けられたみたいなあとがあったな。」 

「絞首のあとですかね? もしかして脅されている可能性もあります。怯えているような様子はなかったですか?」 

「ああ、そう言われてみれば、小刻みに震えていたようにも見えたかな」

警察官は手帳にさらさらと書き込みながら、静かにうなずいた。 

「ご協力、ありがとうございます。また何かありましたら、ご協力をおねがいします。」 

 警察官はメモ手帳をスーツの内ポケットにしまって、従業員室を後にした。—

 次の日の昼前、大倉は外をぶらぶらと歩いていた。普段は部屋でゲームばかりしているが、たまに散歩をすることがある。本当にたまに、だ。昼間の陽光を浴びるのが嫌いだった。平和そうな世界が、どうしても自分には馴染まない気がしていた。

 黒いパーカーのフードを深く被り、ふと煙草が切れていることを思い出す。郵便局近くのコンビニに向かおうと歩き出したそのとき、昨夜の男が郵便局に入っていくのを目撃した。

「あいつ……」 

思わず声が漏れる。大倉は、その男に気付かれないように郵便局へ入った。

 中に入ると、近くの椅子に腰を下ろし、スマホをいじるフリをしながら耳を澄ます。 

「――娘なんです」 

その一言に、大倉は思わず男の方を振り向いた。

 窓口の女性が「夢野さん」と男の名前を呼ぶのを聞き、大倉はその名前を心の中で繰り返した。夢野。夢野。

 夢野の話は、実際にありそうな話だった。本当のことだとすれば、昨夜自分を投げ飛ばしたことも少し納得できる気がした。家族のためなら親は体を張るべきだ――俺もそう思う。

 大倉は、自分の父親のことを思い出していた。自分を捨てて、他所に女を作って出て行った父親のことを。

「俺も……こんな親の元に生まれたかった……」 

ぽつりとつぶやいた声は、自分でも驚くほど小さかった。

夢野の娘、「志田未来」。いや、夢野未来か。 

 大倉は、この父娘を応援したいと思った。郵便局を出るころには、目の奥がじんわりと熱くなっていた。

 春の陽気な光が降り注ぐ中、彼は青空を見上げて歩き出した。 

郵便局員 水沢美幸

 「あれは、嘘だったのですか?」 

 思わず声を荒げてしまった自分に、水沢美幸は驚いた。普段の自分なら、こんな感情を他人にぶつけたりはしない。冷静沈着でいること。それが職場の自分だ。どう見られているか、どう見せたいか――その計算を忘れたことはない。

 けれど、あのときの夢野の話に涙を流してしまった自分を思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしかった。いや、それ以上に、嘘を真に受けてしまった自分があまりに間抜けで、呆れ果ててしまう。

 「嘘だと思います。仮に夢野が本当のことを言っていたとしたら、彼は反社会勢力組織の一員ということになります。組織の一員が、自分の組織に送金するでしょうか? 詐欺に加担することはあっても、詐欺に自ら嵌ることはないと考えたまでです。」

 黒いスーツに黒いネクタイ。いかにも警察官らしい男が、手帳に「夢野阿斗」と書き込む。その仕草が妙に落ち着いていて、水沢の苛立ちはますます募った。

「夢野さんは、違う『志田未来』だとおっしゃっていました。私としては、同姓同名が本当にいるのだと思うんですが、その点はお調べになったのですか?」 

水沢は、かろうじて冷静さを取り戻し、いつものように淡々と尋ねた。

「ええ、もちろんです。日本国籍の『志田未来』を全て調べてあります。夢野阿斗さんに婚姻歴があったかどうかは、これから調べますが、恐らく嘘でしょう。」

 警察官の声は冷たく、機械的だった。水沢は、ふと自分の手元に目を落とした。手の甲を掻きむしった跡が赤く腫れている。気づかないうちに、こんなになるまで掻いていたらしい。

 夢野は、涙ながらに話していたではないか。娘のことを語るその目は、あんなにも真剣だった。それも演技だったのか。

 水沢は、警察官が去ったあとも、しばらくその場に立ち尽くしていた。窓の外から差し込む午後の日差しが、妙に眩しかった。

「もう何を信じていいのか、分からない……」

ぽつりとつぶやいたその声が、自分の耳の奥でこだましていた。

 水沢は、蒼白した顔で家に着いた。玄関のドアを閉める音が、いつもより重く響いた気がした。その顔を見た同棲中のパートナー、吉田梢がすぐに駆け寄ってきた。

「みっちゃん、大丈夫?」

 吉田は何も聞かずに水沢を抱きしめた。その腕の温かさに、水沢はようやく自分がどれだけ疲れていたのかを思い知る。ふっと力が抜けて、肩の力が落ちた。

 「LGBTQ」という言葉が世間で使われるようになって久しい。でも、それは本当に理解されているのだろうか。水沢には、言葉だけが独り歩きしているように思えてならなかった。同性同士が愛し合うこと。授かった性と心の性が違うこと。それについて、正面から考えようとする人は少ない。多くの人が「自分には関係ない」として、目を背けてしまう。 

「まあ、考えない方が楽だもんね……」 水沢は、そういう人を見ると、いつも心の中でそうつぶやいていた。

私だって、嫌味な上司や面倒な同僚と、なるべく関わらないようにしている。それと同じだ。それも同調性の一つだと思う。社会人として生きていくための「技術」。そう割り切っていた。でも、吉田梢はいつも違った。

「そんなのおかしいよ。嫌なら、はっきり嫌って言えばいいじゃん。」

 六つ年下で、社会経験の浅い吉田の言葉を、水沢はいつも「青二才」と片付けていた。でも、私には言えないような言葉を代弁するように言う吉田の言葉に、どれだけ救われたか分からない。吉田と出会わなければ、きっと私はもっと悲観的な人生を送っていたに違いない。

 「ねえ、梢はどう思う?」 

食卓で水沢が吉田に聞いた。話題は、夢野阿斗のことだった。

「わざわざ、自分から詐欺に合うっていうのもおかしな話だよね。」 

「そうでしょ? おかしいでしょ? 夢野さん、涙ながらに話していたんだよ。」

水沢は缶ビールをごくごくと飲み干し、ぷはあと息を吐いた。その顔を見て、吉田がクスッと笑った。

「みっちゃん、珍しく相当ご立腹だね。」 

「そりゃそうよ。だって、心の底から信じていたんだよ。夢野の話。それが、いかつい男に『嘘ですね』って言われたのよ。なんの冗談なのよ。一瞬、素人相手のテレビ番組でもやってるのかと思っちゃったよ。」

「分かる、それ。あまりにも現実味がないと、そう思っちゃうよね。」

吉田は、彩りよく盛り付けられたチキンのトマト煮を一口頬張りながら言った。

「でも、夢野っていうの? 彼はなんで嘘までついて、詐欺に送金したかったんだろうね。」 

「それが分からないから、こっちも納得できないのよ。もう!」

そう言って、水沢は缶の残りを一気に飲み干した。

「冷静沈着な水沢美幸も、人並みに取り乱すことがあるのね。」

吉田が柔らかな表情で、箸でつまんだチキンを水沢に向けた。水沢はそれを口で受け取ると、「おいしい」と笑顔を見せた。

「梢だったら、どう思う? 夢野は、本当に詐欺の被害者なのかな?」 

「んー、こう考えてみるのはどう?」

吉田は冷蔵庫から新しいビール缶を二本取り出し、一缶を水沢に渡した。それから、自分の考えを話し始めた。

 「夢野阿斗は、ヒーローになりたかったんじゃない?」 

吉田の言葉に、水沢は少し眉をひそめた。

「ヒーロー?」 

「うん。誰かを助けたい、役に立ちたいって思いながら、そういう機会がなかったんじゃないかな。そこに、『志田未来』って女性からメールが来た。『困っているの、助けて』って。彼にとっては、願ってもないチャンスだったんだよ。お金を送れば喜ばれるし、自分が誰かを助けたヒーローになれるって思ったんじゃない? だから、みっちゃんに嘘をついた。」 

 吉田の話を最後まで聞いて、水沢はぽつりと言った。

「やっぱり、嘘だったと思う?」

 吉田は驚いた顔をした。水沢がこんなにも「人を信じたい」という気持ちを見せたのは、付き合い始めて一度もなかったからだ。

「みっちゃん、変わったね。」 

「……ん?」

水沢が怪訝そうな顔をすると、吉田は笑った。

「みっちゃん、いつも言ってたじゃない。『社会人っていうのは同調性が大事なのよ。自分がこうだと思っていても、周りが違うと言ったら、それに従う方が楽なのよ』って。でも、いまのみっちゃん、周りよりも自分の気持ちに真っ直ぐって感じ。」

吉田の笑顔を見て、水沢は心臓がドキリとした。

「そ、そうかなあ……」 

水沢が顔を赤らめながら言うと、吉田は少し真剣な顔をして言った。

「私は、そっちのみっちゃんの方が好きだな。」

 吉田の言葉に、水沢は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。それは、喜びとも、安堵ともつかない、不思議な感覚だった。でも、その温かさと同時に、胸の奥に少しだけ痛みも走った。

 これまでの吉田に、私はどれだけ誠実だっただろうか。

 水沢は、吉田の考えを「青二才だ」と決めつけて、真剣に耳を傾けてこなかったように思う。吉田が言ってくれたことも、吉田が見せてくれた景色も、「社会人としての常識」という自分のルールで片付けてきた。周りと同じでなければいけない、と勝手に決めつけていたのは、実は自分自身だったのかもしれない。

 「LGBTQ」のこともそうだ。周りが理解してくれるはずがない、と最初から諦めていたのは私の方だった。そうやって、周りのせいにして、自分を守るために壁を作ってきた。

 でも、私が一番私を信じていなかったんだ。梢との関係だって、職場では「従妹」ということにしている。そうした方が、波風が立たないと思ったから。誰かに何かを言われるくらいなら、最初から隠してしまえばいい。そうやって、いつの間にか自分の大切なものを、自分で小さくしてしまっていた。でも――。

 水沢は、目の前でにこにこと笑っている吉田を見た。その笑顔は、いつだって変わらない。水沢がどんなに落ち込んでいても、どんなに意地を張っていても、吉田はいつも「みっちゃんはみっちゃんだよ」と言ってくれる。

「ねえ、梢。」水沢はそっと口を開いた。

「ん、何?」

吉田が目を丸くして、水沢を見つめる。その目は、いつもと同じ優しさに満ちていた。

「明日、職場で言おうと思う。私たち、従妹じゃなくてパートナーだって。」

吉田は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにふわりと笑った。それから、そっと水沢の手を握った。

「みっちゃんがそうしたいなら、私は全力で応援するよ。」 

その言葉に、水沢は少しだけ泣きそうになった。でも、泣くのはまだ早い。明日、ちゃんと自分の口で伝えるまでは。

「ありがとう、梢。」

水沢は、吉田の手を握り返した。その手は、いつもより少しだけ力強く感じられた。 

温かな明かりがともる食卓に、二人の笑い声がいつまでも続いていた。

志田未来

 南国の日差しがじりじりと肌を焼くような強さだった。けれど、ここはベトナムではない。日本のどこかだ。それ以上の詳細は、語らない方がいいだろう。

 「志田未来」という架空の人物を作り出し、裏ルートから仕入れた顧客名簿をもとに無作為に選び出した相手にメールを送る。最近では、この手の詐欺は「ロマンス詐欺」と呼ばれるようになった。だが、志田にとっては、ただの「仕事」だ。

 架空の名前、作り物の写真、入念に練り上げたストーリー。まるでゲームのキャラクターを作るような感覚だった。実際、ゲーム会社を辞めた人間がこの組織にいるという噂もある。本当か嘘かはどうでもいい。この業界で重要なのは、「金になるかならないか」――ただそれだけだ。

 先日送ったメールに、早速返信があった。志田はその文面を読みながら、自然と笑みを浮かべた。メールに添付した写真に鼻の下を伸ばしている男の顔が目に浮かぶ。その写真は、SNSから適当に拾ってきたものだ。可愛い女性の画像を選ぶだけで、男たちは簡単に釣れる。

「ジョイさん、本当にあのメールに反応するやついるんですね。馬鹿ですね、こいつ。」

 志田は、半笑いでそう言った。ジョイとは、志田より一年先に入った先輩だ。冷静で無駄のない仕事ぶりから、組織内で一目置かれている存在だった。

「だから言っただろ。世の中、馬鹿が多いんだよ。」

ジョイは、志田の言葉に応じるように肩をすくめた。

「自分だけは平穏無事な人生を送れるって、根拠のない自信だけで生きてる奴らばっかりだ。そういう慢心が隙を生むんだよ。自分が『金のガチョウ』だってことも知らずにな。」

「なるほどです。勉強になります。」

「調子いいこと言うなあ。」

ジョイは軽く笑いながら、志田の肩を叩いた。

「ところで、お前、いつまでスーツにネクタイなんかしてんだよ。葬儀屋でもあるまいし、黒一色でよ。」

「妻に、葬儀屋で働いてるって言ってるもんで、いつもこの格好なんですよ。」

「詐欺師の性だな。まあ、プライベートも仕事も、ぬかりなくな。」

ジョイはそう言い残し、部屋を出て行った。

 志田は、夢野と名乗る男に返信メールを送った。内容は、組織であらかじめ用意されたテンプレートをコピペしたものだ。口座番号も海外の複数の口座を使い分けている。一つの口座に集中すると足がつく危険があるため、送金された金は複数の口座を経由して最終的に組織に流れる仕組みだった。

夢野とのメールのやり取りは、二週間を過ぎても続いていた。通常、この仕事は短期決戦が基本だ。だいたいその頃になると、警察の影がちらつき始めるからだ。しかし、夢野のメールからは警察の気配が一切感じられない。それどころか、相手の熱心さにこちらが騙されているのではないかと疑いたくなるほどだった。

「こいつ、やばくないか? もしかして、サツなんじゃねえの?」

ジョイが眉間に皺を寄せながら言った。

「俺も、今そう思ってたところです。でも、もっと金を送りたいって言ってますよ。サツか、本物の金持ちなんじゃないですか?」

「馬鹿、金持ちならこんな詐欺に引っかかるもんか。」

ジョイは鼻で笑った。

「こいつは、本物の馬鹿なんだよ。借金してでも送金してくるような馬鹿なんじゃねえか。早く手を切ろうぜ。」

ジョイの言葉に、志田も同意した。これ以上関わればリスクが高くなる。志田は、相手にこれ以上関与できないと思わせるようなメールを考え始めた。

「これで送金してきたら、マジでこいつイカれてるぞ。」

ジョイはそう言い残し、煙草を買いに部屋を出て行った。

 志田は、メールの送信ボタンにカーソルを合わせたまま手を止めた。もう一度、メールの内容を見直す。それから、最後に一文を加えた。それはベトナム語だった。

≻Chúc bạn hạnh phúc.(あなたの幸せを願っています。) 

 以前、志田がベトナムを旅行した際に現地の人から教わった言葉だ。なぜか、その一文をどうしても付け加えたかった。

 メールを送信したあと、志田はしばらく画面を見つめていた。夢野がどんな表情でこの言葉を読むのか、想像することはできなかった。ただ、胸の奥で小さな違和感がくすぶっている。それが何なのか、志田自身にも分からなかった。

 夢野は懲りずに送金してきた。それも五千万円という高額だった。

「こいつ、やべえぞ。」

ジョイが、画面に映る数字を見つめながら呟いた。その声には、驚きと不安が入り混じっていた。志田も同じ気持ちだった。金額の大きさが現実感を奪っていく。

「もう返信するのはやめましょう。」

志田がそう言うと、ジョイは深く頷いた。

「俺もそれに同意だ。」

 二人は顔を見合わせた。ジョイが心配していたのは、これが「おとり捜査」ではないかということだった。志田もその可能性を考えた。これだけの金額を無償で送る人間などいるはずがない。金の流れを追って、組織の実態を暴こうとしているのだろうか。

志田は、深く息を吸い込んだ。

「でも、これが罠だっていう確証もないですよね。」

自分に言い聞かせるように、そう呟いた。

 本当に善意だけで、見ず知らずの相手に五千万円を送る人間がいるのだろうか。いや、そんな人間がいたら、それはそれで恐ろしい。志田は、夢野のメールを思い出した。どこか不器用で、どこか真っ直ぐで、そして、どこか壊れているような言葉たちを。

「一度、『夢野』という男に会ってみる必要がある。」

志田はそう心の中で呟いた。けれど、その考えを口に出すことはなかった。

 夢野の件を受け、コードネーム「志田未来」は打ち切りとなった。組織のルールに従い、使用したパソコンは全て破棄する決まりだ。志田はバスタブに水を溜め、その中にパソコンを沈めた。

 沈んでいくパソコンを見つめながら、志田は夢野とのメールのやり取りを思い出していた。

「夢野阿斗。一度会ってみたいな。」

 その言葉が、ふと口をついて出た。誰に聞かせるでもなく、ただ自分に向けて呟いた言葉だった。水面に浮かぶ小さな泡が、静かに弾けていく。志田はその様子をぼんやりと眺めた。

 夢野の言葉は、どれも不思議だった。どこか現実離れしていて、けれど、時々胸の奥を掴まれるような感覚があった。あれは何だったのだろう。

 志田は、そっと目を閉じた。パソコンが完全に水の中に沈んだとき、志田はふっと笑った。

「会ったところで、どうなるわけでもないか。」

 自分に言い聞かせるように呟いて、志田はバスタブから立ち上がった。 

 夢野阿斗

 その日は、再就職先の任命式だった。春の陽気に包まれた穏やかな日で、夢野の胸にも少しだけ新しい風が吹き込んでいた。

 「志田未来」からのメールが途絶えて数ヶ月後、夢野は住んでいる市が行う保育士育成プログラムに応募した。全財産を使い果たした彼にとって、給料をもらいながら資格を取れる制度は、まさに救いの手だった。一年間のプログラムを終え、五十歳で初めて保育士として新たな道を歩み始めた。

 新設された保育園は五千万円相当で建てられたと聞いた。園長先生が嬉しそうに話していたのを思い出す。夢野はその風格から、保護者たちに「園長先生」と間違えられることも少なくなかったが、照れ笑いを浮かべながら否定するのが恒例になっていた。

 任命式では、保護者たちを前に担任名とスタッフの紹介が行われた。園長先生が一人ずつ名前を読み上げていく中、遅れて一人のスタッフが会場に入ってきた。その姿を見た瞬間、夢野は息を飲んだ。 

 目の前に現れたその人物は、あのメールに添付されていた写真と全く同じだった。

「あ、間に合いましたね。もう来ないのかと思っていましたよ。」

園長が笑顔で声をかける。

「それでは、最後にコーディネーターとして、いくつもの保育園を回り、子どもたちの発達を支援してくださいます。志田未来先生です。」

 その瞬間、夢野の膝から力が抜け、その場に尻もちをついてしまった。保護者たちはそれをギャグだと思ったのか、会場に笑いが広がる。

「絶対その反応があるかなって思っていましたよ。」

志田未来が軽くツッコミを入れる形となり、さらに会場が和やかな空気に包まれた。

「昨年は、『志田未来』って人前で言うことができなかったんですから。皆さん、これだけは言わせてください。私は本物です!」

 元気いっぱいの声とともに、志田未来は満面の笑みを見せた。拍手が沸き起こり、夢野もようやく立ち上がった。その瞬間、二人の目が合った。

 心臓の音が周囲に聞こえているのではないかと思うほど、夢野の鼓動は高鳴っていた。「いた。やっぱり、志田未来はいたのだ。」夢野は心の中で何度もそう繰り返した。一年前の出来事が鮮明に蘇る。

 今度は彼女の夢を、すぐそばで支えたい――そんな想いが、胸の中で静かに膨らんでいくのを感じていた。

 保育園に隣接する小さな管理棟では、黒スーツに黒ネクタイの男が、施設の防犯カメラの映像を静かに見つめていた。

「これも、詐欺師の性ってやつか。」

 男は画面越しに微かに笑い、画面を暗転させた。

(終わり)

次呂久 真司 ジロク シンジ

所属:芸術専攻 文芸領域

沖縄で小学校教員をしながら「つむぐ」というペンネームで執筆活動をしています。自著『星空の下で』は、沖縄・八重山に伝わる昔話を糸口に主人公たちが成長していく物語を書きました。2024年現在は、本名で活動しています。2025年5月に、小説「比類なき星たち」が出版されます。ぜひ一読あれ!