戦争遺産島 広島市似島の文化史
- 大学院研究員
山田 賢治
研究概要
広島港から沖合に3km、フェリーで20分の瀬戸内海に周囲16kmの似島(にのしま)がある。島には、植林された松を切り倒して年輪を数えたところ二百数十本あったという口伝があり、江戸時代から人が住み始めたと推定される。この豊かな自然が広がる島は本土から「近くて遠い島」として、明治から終戦までは陸軍の検疫所やドイツ人捕虜収容所が、さらに原爆投下直後から約1万人の負傷者が運び込まれる臨時野戦病院が建てられるなど戦争で利用されてきた歴史を持つ。そのため島には戦争にまつわる遺構が数多く残っているが、島民の生活史や文化の継承についての史料はほとんど残っていない。研究では、明治に開校した小中学校の記念誌など島に残る数少ない史料を探り、また島民に先祖から伝え聞いた風習などをインタビューし、戦争に翻弄されながら受け継がれている島民の生活史を残すことを目的としている。
研究では主に似島の2つの出来事に注目する。1つめは大正時代のドイツ人との交流。島にはドイツ人捕虜約500人が収容されたが強制労働はなく、収容所隣のグラウンドで何度も日本人とサッカーをしたという記録が残っている。また洋菓子のバウムクーヘンは、捕虜のユーハイムが日本で初めて似島で作り、のちに国内に広がった。菓子を通したやりとりがあった可能性もある。ただ交流記録の詳細は残っておらず、今後明らかにしたい。
もう1つの注目点は、1945年の広島への原爆投下による島民への影響である。似島には1万人近くの負傷者が船で運ばれ、島民は住民総出で負傷者の救助や遺体を運ぶ手伝いをしたという。今の暮らしに影響が残っているか聞き取りをする。
このような歴史のある島で島民が大事に守り続けてきた文化や風習を探る。その一つに盆踊りがある。江戸時代に独自に作られたとされ、今も毎年夏に深夜まで繰り広げられる。歌詞や踊りの動きの意味を紐解き、現在まで島民に根付いている理由を分析する。
今後の研究活動
似島でのフィールドワーク、史実調査が十分でない現状がある。似島で起きた出来事と島民への影響を、口伝や数少ない史料から読み解く。また、戦争に翻弄されながらも江戸時代から続いている毎年8月の独特な盆踊りなど具体的な風習に着目し、そこから見える島民のアイデンティティを探る。
その上で、港近くにあり島内外の人が集まり交流しているコミュニティハウスで聞き取りを行い、文化・生活史を作る材料とする。
以上をまとめ、2025年度内に学会での発表を 目指す。